2012年 11月 13日
『猫の首を刎ねる』 ガーダ・アル=サンマーン (岡真理 訳) -短篇コレクションI |
プロポーズの前には、古今東西、男はかくも及び腰になるものか。
パリに住むレバノン人アブドゥルの恋人は、内戦を逃れて家族でパリに移り住んだ、
フランス国籍のレバノン人ナディーン。経営学と金融プランニングを学ぶ向学心に
燃えた女性であり、橋の上からバンジージャンプをするほどスポーツ好きでもある。
そんな現代的で魅力的なナディーンにプロポーズしようと決意した日、「掘り出し物の花嫁」
との縁談をぶら下げて、謎の婦人がやってくる。
この婦人、壊れているはずの呼び鈴を鳴らし、身内しか知らないはずのアブドゥルの
本名をどうしたわけか知っている。
ソファに腰掛けても体重でクッションが沈むこともなく、まるで小鳥でも止まっている
かのようだ。
そして、婦人の持ってきた縁談話もまた現実離れしている。
なにしろ「不道徳を植え付ける文字の読み書きなどとは無縁。テレビを観るのもおまえが
観ろと言ったときだけ」「彼女がおまえより大きな声をあげるのは子を産むときだけ。
彼女に政治などわからない。だがおまえが命じるなら、どんなデモにも参加する」という
ものすごい煽り文句の、十四歳の花嫁なのだ。
おもしろいことに、この時代錯誤な婦人とその縁談話を、アブドゥルは訝しむどころか、
むしろ歓迎し、楽しい気分になっている。確かに、多少時代がかっているとはいえ、
こうした縁談は、祖国レバノンでは少し前までは当たり前のことだったのだ。
婦人の話を聞くうちに、アブドゥルは忘れていた「男らしさ」を、男であることの喜びを、
思い出すのである。「レバノンで男であるということは実に愉快なことだった」のだ。
そして、決意したはずのナディーンへのプロポーズは宙吊りになる。
物語の後半、この婦人の正体が明かされるのだが、婦人はアブドゥルの生み出した
妄想のように思われてならない。十四歳の従順な花嫁は、活発なナディーンに日々
圧倒され、男のプライドを踏みつけられているアブドゥルが、束の間見た夢なのだ。
主人公アブドゥルが東西の文化に引き裂かれて、というよりも、東西問わず、
男性一般の願望のようにも思えなくもないのだが……。
一方、一夫多妻制からのつまはじきともいうべきこの婦人が、一夫多妻制を下支えする側
に回ることでしか自分の存在価値を見出せずに、いまでも縁談話をぶらさげてパリの街を
ひとり、さすらっている様は哀しい。
ところで、タイトルの「猫の首を刎ねる」だが、婚礼の晩に花嫁の目の前で、自分に
従わぬとこうなるというみせしめに、猫の首を刎ねろというのだから、世界は広い
というものである。
↓ こちらに収録されています
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
パリに住むレバノン人アブドゥルの恋人は、内戦を逃れて家族でパリに移り住んだ、
フランス国籍のレバノン人ナディーン。経営学と金融プランニングを学ぶ向学心に
燃えた女性であり、橋の上からバンジージャンプをするほどスポーツ好きでもある。
そんな現代的で魅力的なナディーンにプロポーズしようと決意した日、「掘り出し物の花嫁」
との縁談をぶら下げて、謎の婦人がやってくる。
この婦人、壊れているはずの呼び鈴を鳴らし、身内しか知らないはずのアブドゥルの
本名をどうしたわけか知っている。
ソファに腰掛けても体重でクッションが沈むこともなく、まるで小鳥でも止まっている
かのようだ。
そして、婦人の持ってきた縁談話もまた現実離れしている。
なにしろ「不道徳を植え付ける文字の読み書きなどとは無縁。テレビを観るのもおまえが
観ろと言ったときだけ」「彼女がおまえより大きな声をあげるのは子を産むときだけ。
彼女に政治などわからない。だがおまえが命じるなら、どんなデモにも参加する」という
ものすごい煽り文句の、十四歳の花嫁なのだ。
おもしろいことに、この時代錯誤な婦人とその縁談話を、アブドゥルは訝しむどころか、
むしろ歓迎し、楽しい気分になっている。確かに、多少時代がかっているとはいえ、
こうした縁談は、祖国レバノンでは少し前までは当たり前のことだったのだ。
婦人の話を聞くうちに、アブドゥルは忘れていた「男らしさ」を、男であることの喜びを、
思い出すのである。「レバノンで男であるということは実に愉快なことだった」のだ。
そして、決意したはずのナディーンへのプロポーズは宙吊りになる。
物語の後半、この婦人の正体が明かされるのだが、婦人はアブドゥルの生み出した
妄想のように思われてならない。十四歳の従順な花嫁は、活発なナディーンに日々
圧倒され、男のプライドを踏みつけられているアブドゥルが、束の間見た夢なのだ。
主人公アブドゥルが東西の文化に引き裂かれて、というよりも、東西問わず、
男性一般の願望のようにも思えなくもないのだが……。
一方、一夫多妻制からのつまはじきともいうべきこの婦人が、一夫多妻制を下支えする側
に回ることでしか自分の存在価値を見出せずに、いまでも縁談話をぶらさげてパリの街を
ひとり、さすらっている様は哀しい。
ところで、タイトルの「猫の首を刎ねる」だが、婚礼の晩に花嫁の目の前で、自分に
従わぬとこうなるというみせしめに、猫の首を刎ねろというのだから、世界は広い
というものである。
↓ こちらに収録されています
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
by garacoblog
| 2012-11-13 23:30
| 短篇小説(外国文学)